ハッピーエンドを常に望むフォロワーさんにお会いしたことがあるのだけど、僕はそう言えばハッピーもあまり望んでいないし、エンドというのも何がどこまでを持ってエンドになるのだろうなどと考え始めるので、それがバッドエンドだとしても同じことだがそのような結末というのをそもそも想定していないことに気が付いた。ハッピーもバッドも対象の捉え方の違いで言ってみれば相対的な判断になる。そしてエンドというのもある人が死ぬとそこでエンドになるのかと言うとそう言うことでもなかったりする。それは社会的なこともあるし人間的なこともある。死を持ってエンドとするなら生に執着がない人はハッピーエンド、生に執着がある人はバッドエンドになるだろう、想定だけれど。そのフォロワーさんの話に戻すと、僕はこの人は何を見てこの世界にハッピーエンドがあり得ると思うのだろうと思った。僕はハッピーエンドが僕の中で起こることなんて一度も考えたことがなかった。むしろ起こるはずがないものとして考える事柄から幼い頃に除外したような気がする。その方はいいこともわるいことも拾い上げて一つずつ見ているようだった。何を見ているのか知りたかったけれど、機会を損ね続けている。穏やかでその方の少し上に世界が造られていっているようだった。周りの人の目というのを気にしたことなどなかったようで、何となくいいなあと思った。年齢のお蔭なのか分からないけれど、僕ももう少し穏やかに生きたいとは思う。そうできない出来事が起こり続けていて流石に疲弊してきた。ふたりで居酒屋で酒を呑んだのだけど、大抵食事が始まると会話をしない癖があって(日常的にもあまり会話はしない方だが)、黙々と呑んで食べたりしていた。あとは久々に酒を呑めて嬉しくてじんわり味わいたくて時々ぼーっとしたりしていた。おいしそうに飲みますね、と言ってくださってそうですか、と返事をしたら、気持ち良さそうに飲んでるのをお邪魔するのもあれかなと思って、と言ってくださった時にこんな人が世の中にいるのかと内心すごく驚いたのを記憶している。おそらくこのような人柄だからハッピーエンドを望んでいるのかもしれない。人の辛い姿を現実で見る以外にも例えば文章などで間接的に見るのも苦手だったりするのかもしれない、分からないけれど。その人がその人の価値観でハッピーと思える結末があったらいいな、とそんな感じだろうか。僕もあんな風になれるだろうか、あの時すごく驚いたのと同時にすごく嬉しくなったのも覚えている。その時には僕もハッピーエンドを望んでいるのだろうか。分からないけれど。

献体の申し込みを始めた。

ちょっとした不注意で耳を少し切った。浅い傷は痛いと云うよりもかゆい。

朝起きて薄い毛布を被ったまま這って窓を開けた。請負の仕事が残っていて面倒くさいなあと思いながらPCも開けて、ぽわぽわpさんのブラウンをいつもより音量を上げて流していたら、ベランダの物干し竿に雀が一羽停まってずっと鳴いていた。曲が終わると飛んで行った。偶然かもしれないけどちょっと嬉しいなと思った。

 

最近、環世界について調べているけれどメルロ=ポンティの身体論とすごく相性がいいなと思った。身体の解離を極限まで行えば何か見えるんじゃないかと思っていたのだけど、どんなに解離がひどくたって決してこの身体から脱することはできないので、あまり良い手段ではないなと薄々思っていた。本当に身体から解脱するのなら、その逆で内へ内へと深く潜ることが必要だった。この辺りは西田幾多郎の哲学とかに繋がるかもしれない。もしほんとうの宗教と云うのが海底ならば、そこから見上げて見る光は何なのだろう。僕はプラトンをよく知らないのだけど、もしかするとそれはイデアのようなもので、そこで見たものに魅せられることは岡潔の言う情緒とかそういうものなのかもしれない。

あとは最近、これがTwitterで流れて来てからすごく好きで時々聴いてる。

里に雨が降ると辺りの山に濃い霧が掛かった。日が西に落ち始め夜の帳がゆっくりと降ろされる頃、男は背負い籠を背負って外へ出た。畠の脇の道を登って山へ入っていった。

笠の隙間から雨が入って顔に伝った。男は大変夜目が効いた。雨の山は歩き難い。岩は滑るし砂利も沓の中に泥水とともに入る。高い所で木々の葉に雨が叩きつける、傍で漏れた雨が笹に当たって雫が葉脈に沿って流れた。この山は昔の人間が道を開いた時に狼の姿をした神が居たと云う。神は人間の姿に気付いた時に高く永い声で鳴いた。ここは私達の森だと。人間は意を解すことなく道を開いた。その人間たちは下山の途中で滝の脇道で滑落して死んだと云う。

男は綿布を出して雫を拭った。雨音だけが聞こえた。道には砂利に雨の叩く音が聞こえる。道でなければ草木に叩く音が聞こえた。男は耳も大変良く聞こえ、道は音で知った。日は完全に暮れていた。

道のトの字になるところへ来た。真直ぐ行けばもう直ぐ山頂へ行く。逸れる道は辛うじて道と判断できるもの。両脇の草は少しばかりの隙間を空けている。獣道だ。男は入り口に草を掻き分けて進んだ。

獣道に入ると一段と黒くなった。光は無い。雨の音だけがある。少し下り坂になっている。滑らないように気を払って進んだ。

時間はどうしても不平等に各人の中に存在する。平等になる時間があるとすれば、それは触れている時、身体が直接性の経験を持つ時だろう。確かに時間という量はこの星の地上にいればどこでも同じ1秒を刻むのかもしれないが、僕らが体験している時間というのは、僕らの時間感覚に過ぎない。機械的な時計が身体の中に内蔵されていない限り、時間というのは決して一定ではなくて僕らの感覚に依存している。

数学に興味を持ち始めた頃、僕はゼロの次に虚数に魅入った。見えないものを存在させると今まで見えなかった仕組みが見えるようになる。虚数の存在自体は僕はわからないけれど、存在の仮定をすることで生まれてきた世界が僕にはとても興味深く思えた。環世界(Umwlt)、人間以外の感覚世界で見える世界にきっと何かまた見えていなかった仕組みのようなものが見えるようになるんじゃないか。まだ上手く言えないのだけど、僕がちょっと期待しているのはそういう所だ。

生きている意味というのは存在せず、ただ生きる意味としてハイデガーのいう「時代性」があるのだと思う。この時代に、この時間に生きるという事柄それ自体がただ一つだけ存在している点。リルケの「大切なのは生きていることであった。それが何よりも、大切なことであった」というのは時間を以てして何よりも大切なことになるのだろう。もしかすると巨大な生物のようである文化がどのようにか変化する瞬間に僕は生きれるのかも、生きているのかもしれない。沈み込んでいる時はただそういうことをひたすらに考えたり思ったりしている。

粉骨過程の動画を見ていたら野焼きのにおいが部屋に流れてきた。最近は朝方と夕暮れは気温が下がって寒いくらいなのだけど、日中は晴れていると夏日のようになる。もうすぐ父の忌日になるのだが、できたら今年にでも散骨したいなと思った。あまり長くこの世に遺っているのは父は望んでいなさそうだなと思う。先日、夢でロードバイクに乗って山の中に入っていく父を見た。やっと登るのかと思って、苦笑しながらいってらっしゃいと言った。

この前、源頼政の公墓を見る機会があった。この人の最期についての記録を読んだ時、何となく項羽みたいだなと思った。

窓の隙間から入ってきたのか先ほどから蜘蛛があちこちをジャンプしている。飛び上がろうとして本が反り上がるように積み上げてあるので、登れずに落っこちた。ちょっとかわいらしいなと思って本を階段状にずらしておいたらその上を登っていった。この蜘蛛はどんな景色を見ているのだろうなと思った。僕は蜘蛛が苦手なのだけど、このくらいの大きさで、地蜘蛛でなければ大丈夫みたいだ。まあ地蜘蛛は大抵見たらひっくり返るような大きさのものが多いので、その恐怖心から苦手なだけなのだと思う。生き物の姿としてはすごく綺麗で機能的な形をしてる。

圏論の勉強に行き詰まり感じ始めたので、例題で取り上げることが多く,術語の理解が疎かであった群論の勉強を始めた。今月はじめにあった春の古書即売会で購入したH・ヴァイルの『シンメトリー』が大変良い入門書になっています。『シンメトリー』は去年お金がなくて泣く泣く買うのを断念した本だったので、今年購入することができてとても嬉しかったです。そして買っておいてよかったです。この本は自然や芸術に存在する対称性、シンメトリーから群論まで拡がっていく過程を解く、ヴァイルの最後の著書。翻訳は数学者の遠山啓さん。挿図が豊富で視覚からの理解も促され、何より先日から並行して読んでいるエッシャーとも関連していくだろうと思います。

僕は数学の分野で一番苦手なのが代数学なのだけど、群論あたりまでくるとむしろとても分かりやすく思えてくる。それはきっと集合のおかげなのだろうなと圏論を勉強しているときに思った。途中、公理的集合論あたりをやったほうがいいのかなと思ったのだけど、おそらく分からないと思うので、このまま群論を進めて行こうと思う。ある程度の術語と練習問題が理解できるようになったら、圏論に戻ろう。

『ベーシック圏論』にあった、圏論的な考えで公理的集合論を捉え直すあたりがすごく面白かった。僕は多分直接集合論を勉強するより、圏論を挟んで勉強した方が理解しやすいのだと思う。

ユクスキュルの『生物から見た世界』を本屋さんで探すのだけど、一冊を探し出すのって中々難しい。それかセレクトショップ的な書店さんが京都には多く、最寄りもそういう感じばかりなので見当たらないのかもしれない。中心まで行くのも少し大変なので今月は論文や記事をかき集めて読むことにした。その中ですごくヒットするのがいくつかあったので、今月中は環世界についても理解が進められると思う。僕が環世界について興味があるのは、これを文化進化論に活かせるかもしれないと思うからだ。うまく行くかわからないし、方向性が少しずれているような気もしなくはないけれど、やって見たいなと思う。

先日の来人があった際に貴船に行きました。

この記事は先週あたりに書いたようですが投稿を忘れていたようです。

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貴船口を降り、行きはバスを使わずに歩いて行きました。久々に森の中を歩いた気がし
ます。左右どちらかが常に川の音が流れていました。天気は晴れで日差しは強かったですが、木陰に入ると涼やかで気持ちがよかったです。ただゴールデンウィークだったからか車通りが大変多くて少し疲れました。

貴船神社は水を司る高龗神(たかおかみのかみ)が祀られています。この神さまは貴船にある岩へ降り、平安の都へは気高い龍となって雨を降らせるなどを何か小説の中で読んで記憶があります。

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藤の花が咲いていました。散りかけの様です。